東日本大震災の記憶 被災地を100回以上訪れた小山慶一郎さん

はじめに、本日は2021年3月11日です。

お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたします。


2011年3月11日の東日本大震災後、4月に現地入りした後、述べ100回以上小山慶一郎さんは宮城、岩手、福島などに震災の記憶を風化させずに伝えるために何度も何度も取材に入りました。

ジャニーズ事務所内どころではなく在京の記者では1番現地入りしているとも言われています。

これから紹介する写真はその取材の一部です。2018年まで7年続けた取材の中の2014年までの取材の内のほんの一部分です。


あれから10年が経ち、ここに掲載の写真の回数すら現地に足を運んでいないのに被災地を見てきたと名乗る人も出てきました。

また、東北の人はnews every.を見れない地域も多く、きっと知らないと思います。

(とはいえ、映る地域で知った方も中にはいらっしゃいます)

自分達の住む街の状況を伝えているのにそれを知らないまま今日まで過ごして今ここで初めて知った人もいるかもしれません。

毎週毎月とずっと現地から取材をしていたのは小山くんでした。

耳の聞こえない方への取材も手話で行い、被災地の障がいを持つ方への取材を何年も前からしていました。今になってネットメディアが障がいを持つ方の被災経験を記事にしていましたが、テレビでいち早く取材し伝えていたのは小山くんです。

しかも人づてではなく自身で手話を使い取材をしています。


Smile Up ! Project 〜「生きろ」〜 小山慶一郎

約80万回再生の小山くんによる手話歌です。

小山くんは手話を始めて12年です。6、7年前にはモスの2階の片隅で先生に手話を教わっているところを目撃されています。

腕前は通訳士レベル、24時間テレビでは実際通訳されている事もありました。


小山くんは自ら企画して取材を続けたそうです。

今日、テレビに出てあたかも長年被災地を見てきたような事を言っているキャスターもいますが長年被災地を見てきたのは小山慶一郎さんでした。

あの日テレの藤井キャスター、藤井貴彦さんでさえ、ニュースとして伝える事はあってもスケジュールの都合からか現地に入る事は少なく、現地の方との触れ合いは小山くんがほとんど担っていました。


被災地からの小山くんの取材で最初に衝撃を受けたのは、震災後の4月、瓦礫を棒状のもので避けて何かを探している自衛隊の方に何を探しているにかを聞いた時に「人を探している」と返事が返って来た時でした。

それを受けてさらに小山キャスターが返事を返すまでの重苦しい空気。

同じ映像を見ていた方は多いと思いますが、鳥肌が立ちました。

これはとんでもない事が起きてしまったのだ、様々な映像で知ってはいたものの、心からそう認識したのがあの最初の現地取材でした。


2011年4月 宮城・多賀城市 初めて訪れた被災地 ご遺体を捜す自衛隊の姿が


2011年、この年は震災が起きたと同時に山下智久さん、錦戸亮さんがNEWSから脱退した年です。

小山くんは被災地への毎週のような取材を続けながら初夏には脱退する意思の話を聞きます。

自身の所属するグループの解散の危機と東日本大震災

そして現地でNEWSのファンと出会い、津波から逃げる時にNEWSのCDを持って逃げました、と話してくれた子に出会います。

NEWSは宮城、仙台を皮切りにツアーを始める事が多く、宮城にファンが多くいるのですが逃げ遅れてしまった子の中にはNEWSのファンもいたであろうこと、その子たちにこれ以上悲しい思いをさせたくなくてNEWSを絶対に続けないといけないと思った事などを2012年にはブログで話してくれています。


しかし2011年の当時は脱退の話や震災の取材で心が疲弊してしまった時もあり、誰にでもわかるような縦読みで「みんなに会いたいよ」と夏の終わりにファンに伝えています。

私はそれを読んで道端であるにも関わらず涙が止まらなかったのを覚えています。


2011年4月 宮城・名取市 津波で流されてなおも生き残った豚たち


2011年5月 宮城・石巻市 道の真ん中まで流された巨大な缶詰


2011年5月 岩手・宮古市 大量に発生したがれきを前に…


2011年6月 福島・いわき市 住宅街で突然わき出たのは…温泉


ただでさえ悲しい事の多い中で生死と向き合う取材を続けて小山くんの心は疲弊していきついには家のソファでただ座っているだけで泣いている事もあったようです。(小山くんはまだこの時は実家に住んでいましたがこの半年後、母親を心配させないように一人暮らしを始めます。)

時々用事で会う方も、彼から段々と表情もなくなっていっていたそうで心配していました。

表やテレビでは強くいても実際はいつでもそういれるわけではありません。


2011年12月 岩手・大船渡市 日本一の生産量を誇る三陸わかめの養殖再開


2012年1月 宮城・気仙沼市 被災地で最大級の復興商店街 ピアノ教室にて


2012年2月 宮城・南三陸町 春を告げる野菜 ちぢみほうれん草の収穫


2012 年2月 福島・浪江町 原発まで7キロ 警戒区域で警察に密着


2012年10月 宮城・南三陸町 最盛期を迎える秋サケに水揚げ


2013年3月 岩手・釜石市 聴覚障がいがある女性 手話で震災体験を語る


2013年4月 岩手・大船渡市 地元ブランド「恋し浜ホタテ」をがぶりと


2013年4月 岩手・大船渡市 願いが書かれたホタテ貝 駅の待合室に


2013年6月 宮城・名取市 内陸で生産を再開した特産メロン 旬を迎える


2013年7月 福島・川俣町 復興に取り組む川俣シャモ 風評被害と闘う


2013年8月 宮城・仙台市 津波で流された写真の展示会 持ち主に返らない物も


2013年9月 福島・福島市

かーちゃんの味を伝える弁当 放射線量を毎日測定


2013年10月 岩手・大船渡市 運行を再開した三陸鉄道 名物を車内で販売


2014年3月11日 岩手・宮古市 あの日から3年 鎮魂の祈り


私はこの7年間の小山くんの取材で現地の事を知り現地の食べ物を食べる事で応援してきました。小山くんも食を伝える事が支援に繋がるということもあり、幾度も伝えてくれました。中には取り寄せて食べた事もあります。はまぐりもなかクッキーはお取り寄せしました。他にも海産物や缶詰など小山くんが取材した会社もそうでない会社も含めていくつもの食べ物を食べてきました。

ここに載せた写真は彼の取材のごく一部でしかありません。

なお、取材時は少人数で行動し、彼はメイクも自身で行っています。

記事書きも当たり前ですが自身です。

記事を読む時は例え自身の言葉であっても間違いがあってはいけないのでプロンプターを通します。それに打ち込むのも自身で行っています。

プロンプターを読みあげたからと言って自身の言葉ではないわけではないのにニュース番組の仕組みを知らない別のグループのファンの方がカンペだのなんだのと言っていた時には心の底から呆れました。

おそらくニュース番組が生放送と聞いて寸分の遅れもなく放送されていると思っている類の方でしょう。

(実際は生放送と言っても数秒遅らせて放送しています。放送事故などを防ぐためです。)

彼はミニマムなチームでいつも取材を行っていました。


話が逸れましたが、私は宮城でのコンサートの時はどこの会場よりも1番お土産を購入し1番いろんなお店で食事をしました。

単純に宮城の食べ物が美味しかった事もありますが、少しでも力になれたらという小山くんの想いが伝わっていましたし、私自身も力になりたくて現地では多く購入し、自分の地元でも現地のものを選んで購入するようにしていました。

地元のスーパーやコンビニには宮城のあげかまなどの商品がレギュラー商品として売っていましたし、池袋にある宮城のアンテナショップを今もよく利用しています。


宮城ふるさとプラザ COCO MIYAGI



警察も現場100遍と言いますが小山くんは現地の気持ちを知るためにあの日の記憶を消さない為にそれを実行していました。



NEWSはどこの地域でコンサートを行うかは自身の話し合いで決めます。

他のグループは決められているところも多いようですが、NEWSは自分達で決めています。

震災翌年の2012年の9月にはNEWSは仙台公演を行いました。

NEWSの動員数は多く、現地に数万人規模のファンが集まればそれだけ経済を回します。

彼は当時から自分達が仙台で公演する事で被災地の応援が出来ると自覚し、決め、ジャニーズwebのブログで小山くんは公演について触れています。翌年には「入って迷惑かけるかかけないか」などと案じている段階にはとっくにありませんでした。

案じる人もいたようですが案じるぐらいなら現地に一回でも赴き被災地の現状を見ればすぐに答えが見えた筈です。NEWSのファン、小山くんのファンも率先してかの地の経済を回すべく動いていました。

彼は震災後早い段階でこの先についても一緒に考えていきましょうと言っています。


そして会場についても「たくさん悲しい涙が流れた場所でもあります」と公演直後のブログで話しています。

小山くんは取材をしているので自分達が公演を行ったコンサート会場がご遺体安置所だった事も知っています。

仙台のコンサートの時だけは小山くんはいつも天を指差し亡くなった方へ捧げるように歌っています。それは毎年続いています。

NEWSのコンサートの宮城の会場に来る方の中には辛い思いをした人が多くいる事を知っているのです。

小山くんは多くの時間を現地取材に費やしてきました。

今日、10年の節目にどのテレビ局で語っているキャスターやタレントの誰よりも現地に入り、人々の声を、声で話せない人の声も手話を通して聴いてきました。


私は小山くんの目を通して伝えてくれた東日本大震災のこと、防災の知識、漁港の人々、復興への道を辿る人や避難所での人々の思いや訴えを大事にしていきたいと思っています。


今年、以前タレントキャスターを馬鹿にした自称ジャーナリストが東日本大震災10年として同じ局に出ます。

しかしこの方よりも小山くんの方が現地を見ています。

そしてタレントであるとかそうでないとかは全く関係がないのです。

何故なら大学で勉強してきていて誰でも最初は初心者です。

キャスターも最初は初心者、ただ1人の大卒者です。

小山くんも大学で勉強してきてタレントでもあり1人の人間としてそしてキャスターとして伝えるためにアナウンス学院へ通い言葉遣いや発声から学び、何よりも伝えるために取材の相手と幾度も言葉を交わし意思疎通をはかっている1人の人間なのです。

報道の現場にいればいるほど技術も上がります。

なおこのタレントキャスターと言った方の他にも疑問を感じたのは当時同じジャニーズという括りで優秀さを比べていた他グループのファンの人たちです。呆れしかありません。現場にいる時間が長ければそれだけキャスターとして技術も上がり、認知されるのは自然な事であり、文句を言われるようなことではないのです。そんな事より内容に目を向ければいいのにと思っていました。


今、タレントか否かでしか判断できない方が、現地の人々と言葉を多くは交わしていないのに震災を見てきた人間のような顔で語る。おかしな世の中になったと思います。


私は誰の言葉よりも小山くんの言葉でこの10年を知りたいと思っています。

私の東日本大震災の記憶は彼の取材を通して存在しています。



追記

先ほど小山くんがジャニーズwebの有料ブログを更新してくださいました。

他のグループのファンの方もweb会員であれば見れますので是非。


心の復興を考えていた小山くん、今も現地の方々と心を通わせていて暖かいやり取りをしているようです。コロナで近くにいけなくても電話で話せる。電話で話ができたこと、とても良かったです。節目は人それぞれです、と過去に小山くんも言っていたように節目はこちらが決める事ではなく人それぞれ。(2012年、南三陸で黙祷を捧げた翌日に既に小山くんはブログで記していました)きっちり10年だから何かというわけではないと思います。

今も現地の方と心を通わせ、コロナ禍が終わったら会う約束ができる、そんな方々との交流が続いていることにこちらも嬉しくなりました。これは上辺だけの取材を行う人には絶対に出来ない事です。

またまだ心の復興の途中の方もいらっしゃるようです。しかしそういった方もまだ全快ではないよ、と素直に伝えられるその関係を作れた事、それはこの10年、小山くんが個人的にお話しをして関係を構築してきた結果だと思います。

建物だけではなく、心の復興をしている報告を次は聞きたいと思いました。


なお、掲載の写真は取材から日時が経っていますのでスタンプなどで顔を隠させていただいています。また、小山さんの取材の記録を残したく、拡散歓迎致します。なお、残す為に他の媒体でも同じ文章を掲載する可能性があります。

※このブログの文章の本家はアメブロです。